勉強が苦しいという考えはそろそろ捨てませんか?
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先日、NHKの「ウワサの保護者会」という番組で、目が飛び出るほど驚いてしまう発言がありました。
それは、「勉強とは?」というテーマについて語っている最中のある保護者の発言で、以下のようなものでした。
「悩み苦しんでいる子供を見ると安心して、楽しそうにやっていると止めたくなっちゃう」
あなたはこの一言を聞いてどのように思われますか?
もしかしたら、確かに、と思う方もいらっしゃるかもしれません。
この発言は、勉強は辛いもの、修行のようなものだという価値観と、努力には苦労がつきものだという二つの価値観に囚われているのではないかと考えました。
はたして本当に勉強は辛いものなのか?
少し考えてみたいと思います。
目次
勉強の出発は知的好奇心から
そもそも、何のために人は勉強するのでしょうか?
現行の制度や社会などを一切無視して、人間が学ぶ動機という原点に立ち返って考えるならば、それは「学びたい」という意欲、知的好奇心から勉強するのではないかと思います。
「今、目の前を飛んで行ったきれいな色をした虫は何という名前なのだろう?」
「どうして海は青いのだろう?」
「この気持ちは何という言葉で表すことができるのだろう?」
こういった疑問から「学びたい」という意欲が生まれ勉強が始まるのです。
子供の内側から湧き出してくる「なぜ?」から始まるのが勉強なのです。
目の前の疑問について勉強し、一つ答えを得ると、また新たな疑問が生まれてきます。
「あの虫はアゲハ蝶というチョウだったのか!じゃあ、似たような形をしている白い虫は何という名前なのだろう?」
勉強とは、疑問から出発し、答えを得ることで新たな疑問に出会うスパイラルになっているのです。
このスパイラルを繰り返していくことで、豊かな知識や思考力・創造力・判断力といったものが育っていくのです。
私は子供にも大人にもいつも口酸っぱくいっているのは、「いつまでも疑問を持ち続けられる人になってください」と話しています。
疑問は学びの扉を開くカギとなるのです。
そうは言っても学校の勉強があるでしょ・・・。
先ほど述べたことは「勉強」に対する理想論です。
理想を実現できればいいですが、実際には学校の学習指導要領に沿った学習内容があります。
そして、それらの内容は目の前の子供の疑問とぴったり合っているとは限りません。
ここで考えなければならないのは、学校で勉強する意味と学習への動機づけです。
学校の勉強は”ものの考え方を身に付ける”、”やり方を学ぶ”ためにある
学校の勉強には、「基礎学力の定着」という目的と、「やり方を学ぶ」という二つの目的があります。
基礎学力の定着は、いわゆる読み書き計算などの、最低限の学力を身に付けるためのものです。
これは、スムーズに理解していただけると思います。
二つ目の「やり方を学ぶ」というのは、例えば、論理的な文章を書いたり要点を分かりやすく相手に伝えたりする方法を学ぶということなどが挙げられます。
二次方程式や因数分解など、それ自体は社会に出た時に直接役に立つものではないかもしれません。
しかし、その内容を身に付ける過程で、「答えを導くために仮説を立て証明していく力」「導き出した解が正しいか確かめる力」「物事を多角的に見る力」など、社会で必ず必要となる力を身に付けていくことになります。
こういった「ものの考え方」や「やりかたを学ぶ」ために学校の勉強があると考えています。
少し極端な例になるかもしれませんが、ゲームや運動で考えるとイメージしやすいかもしれません。
初めてゲームをやる子は何が何だかちんぷんかんぷん。
見よう見まねでやったり試行錯誤繰り返したりしながらやり方を覚えていきます。
しかし、一度身に付けてしまうと、RPGならRPG、アクション系ならアクション系のゲームであれば、二回目以降はそれほど苦労することなくゲームを始めることができるようになりますよね。
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これは、それぞれの”やり方を身に付けている”からなのです。
RPGを論理的思考、アクションを数学的な考え方に置き換えれば勉強でも全く同じであることが分かります。
そのRPGやアクションの難易度を少しずつ難しくしていったものが、小学校1年生~段階を経ていくということなのです。
スポーツでも同様です。
一度何かしらの球技に取り組んだことがあれば、比較的球技系のスポーツにはすんなり参加することができます。
器械運動でもやり方が分かって入れば動きの習得や対応が早くできるようになります。
この球技や器械運動を、論理的思考力や数学的な考え方に置き換えて考えるのです。
学校の勉強は「基礎学力の定着」と「やり方を学ぶ」ためにあるということを理解しておいてくださいね。
大切なことは「動機づけ」。求められるのは教師の力量。
学校の勉強の意味が分かったところで大切なことは「動機づけ」です。
取り上げる内容が子供の興味や関心、疑問とマッチしていないのであれば、マッチするように仕向ければよいのです。
そこで求められるのが、教師のプロとしての指導技術です。
学習に入る前の段階、あるいは導入の段階でどれだけ子供の興味や意欲を引き出し、疑問をもたせることができるか。
それが、授業のカギであり、子供にとって学習する意欲・必然性となります。
必然性がない学習はハッキリ言ってほぼ無意味です。
これは、大人のみなさんならすぐわかるのではないでしょうか?
何となく始めた英語の学習は続かないけれど、給料のためや取引先の連絡に必須だと分かれば必死になって英語を身に付けようとしますよね。
そして、実際に定着するまでのスピードも段違いです。
教師は、子供の興味・関心を引き出し、学習する必然性をもたせる技術が必要なのです。
良い教師としてメディアなどで取り上げられる先生は、どの先生もこの技術が優れています。
もし、この記事を読んでくださっている先生がいらっしゃいましたら、ぜひご自身の授業が子供にとって必然性のあるものになっているか考えてみてください。
勉強は楽しいものです!ただ、結果として苦しいことはあります。
今までのことをまとめると、勉強は「やりたくてやるもの」なのです。
なぜなら、本来の勉強の出発点は疑問や好奇心から始まるからです。
そして、その求める答えに近づいていく過程はとても楽しいものなのです。
つまり、「勉強はやらされてやるのではなく、やりたくなるからやる」というのが一番の答えになります。
ただ、その答えを求める過程で、困難な壁にぶつかることはあります。
数学者が難解な数学の公式の証明に頭を悩ますのと似ているのかもしれません。
結果として苦しかった、ということはあっても、苦しいから正しい、苦しくないから勉強ではない、ということにはなりません。
そこをはき違えると、お子さんは勉強を楽しめない不幸な大人に育ってしまいますよ。
また、「勉強はやりたくなるからやるものだ」と言っても、現行の日本の教育システムではそればかり言ってられないのも現実です。
そこで大切になるのは、勉強の価値づけなのです。
何のためにやるのか、どのような動機付けをして取り組ませるのか。
教育のプロである教師はこれを常に考えて取り組まなければなりませんし、親もそれを考えていく必要があるでしょう。
いずれにせよ、子供にとって学ぶ必然性がないと、自分から勉強しようという気は起きません。
必然性を生み出すための学習課題の工夫と環境整備がこれから更に研究されていくことでしょう。
(あとがき)
日本の教育システムは元々は素晴らしいものです。
これだけ基礎学力の定着が図れている国というのは世界でも多くありません。
しかし、いつまでもそればかりに囚われていてはいけませんよね。
温故知新の考え方で、時代に合わせた教育を切り開いていくことが必要だと感じています。
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