「個性」と「わがまま」のボーダーってどこなんだ?
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「個性を尊重しろ」とはよく言われる言葉ですが、一体個性とはなんなのでしょうか?
デジタル大辞泉によると、『個人または個体・個物に備わった、そのもの特有の性質。個人性。パーソナリティー。』と記されています。
上記の意味を踏まえると、学校で何をしていても「個性だから」でまとめてしまえそうな気がしますね。
実際に教育的場面で使う時には、どこまでが「個性」として許され、どこからが「わがまま」として指導すべきところになるのか、そのボーダーについて考えてみます。
目次
さっそく素晴らしい例えに出会ってしまった
この問題を考えるにあたり、インターネットや本などで「個性」と「自由」、そして「わがまま」について調べていたのですが、調べてすぐにパーフェクトとも言える回答に出会ってしまいました。
以下のツイッターでのつぶやきですが、小学生当時の担任の先生の言葉だそうです。
「例えばこのクラスのみんなが『晴』という漢字を書いても線のとめかた払いかたは絶対に同じにはならない。それが個性です。みんなが『晴』と書く中で『雨』と書いて、僕はみんなと違うんだ!すごいだろう!!と言ってもそれは個性とは認められません」という小学校の担任の先生の話はよく覚えている
— 原田 (@harudajin) 2015年11月28日
超納得ですね。
みんなで「晴」を書いている中で、その書き方に微妙なばらつきが出ます。
それは、その人がもっている書き方の性質の違いなので「個性」です。
しかし、みんなが「晴」を書いているのに一人だけ「雨」を書くのは「わがまま」になるというわけですね。
非常に分かりやすいたとえ話ですね。
私もこんな先生に担任になってほしかったと思います。
「個性」と「わがまま」の例
学習については、素晴らしい例えに触れることができたので、他の場面でよく見られそうな例を考えてみました。
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スポーツ
野球
みんなでサードからファーストへの送球練習の場面。
送球までのステップや投げ方には一人一人クセがあります。
このクセが「個性」です。
指導者は、この「個性」を踏まえたうえで、よりよい送球が投げられるように指導する必要があります。
つまり、誰に対しても画一的な指導をするのは、「個性」を無視した指導になってしまいます。
対して「わがまま」になるのは以下のような場合。
みんながサードからファーストに投げてるのに、一人だけ思いっきり外野の奥まで送球して、「おれの遠投力すごいだろ!!」と自慢げになっている状態。
サッカー
パス練習の場面。
一人一人の蹴り方の違いやボールの入り方の違いが「個性」
みんながパス練習をしているのに思いっきりシュートを打つのは「わがまま」
陸上
みんなでランニングしている時の走り方の違いが「個性」
一人だけ全力ダッシュで暴走しているのは「わがまま」
音楽
合唱や合奏の場面。
一人一人出す音色が微妙に違う(力加減、息遣い、声帯の違いなど)のが「個性」
楽譜と違うことをして一人よがりな合唱や合奏をするのが「わがまま」
ゲーム
対戦の場面。
戦い方や戦術の違いが「個性」
勝手なルールを作ったり相手の妨害をしたりするのが「わがまま」
「ルールの枠の中での自由」=「個性」
ここまでいくつかの例を挙げてきました。
そこから分かることとして、
個性とは、「ルールの枠の中での自由」だと言えるのではないでしょうか。
「晴」を書くというルールの中での「とめ・はね」などの違い=個性
「晴」を書くというルールで「雨」を書く=わがまま
このように考えることができます。
他の場面でも同様です。
一番柱となるルールを守っているかどうかで、「個性」と「わがまま」が分かれています。
お子さんに関わる大人として、この基準を意識して「個性」と「わがまま」を見極めてみてはいかがでしょうか。
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